# 3 山梨県甲州市
海と共に営まれてきた生活に想いを馳せて。
錆和紙がまとう静寂さと切実さ
# 3 山梨県甲州市
錆和紙アーティスト
伊藤咲穂さん
プロフィール
島根県出身。武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科テキスタイル専攻卒業。独自の表現手法として、和紙を漉く過程で砂鉄を混ぜ合わせる「錆和紙」を主材とする。渚の交番SEABRIDGEプロジェクトでは、正面壁に幅計10mほどの常設展示作品を2点発表。人間と自然の共存をテーマとした表現を模索し、幅広く創作活動を行っている。
渚の交番SEABRIDGEの扉を開いて正面、カウンターの背壁に常設展示されているのは、錆和紙アーティスト・伊藤咲穂さんの作品だ。カウンターを挟み、全部で幅10mほどもある和紙絵が左右静かに佇んでいる。「錆和紙」は、和紙を制作する過程で鉱物を漉き込んで作られる。今回の作品の材料となる砂や鉄粉は因島の海岸や造船工場で採取したものが使われた。
制作の視察を兼ねて初めて因島を訪れた咲穂さんは、海が紡いできた物語を聞いて衝撃を受けた。海が持つ、命との切実な関係性。その感覚を自らの主材である錆和紙という表現に落とし込んでいった。
今回「海がつなぐ物語」では伊藤咲穂さんのアトリエを訪ね、錆和紙という表現手法、作品に対する背景や想いについて伺った。
海が持つ荒々しい表情と
その側で営まれてきた生活や産業
古くから海運業や造船業で栄えてきた因島。
瀬戸内海は荒波が少なく穏やかだが潮の干満差が大きく、それ故に潮流の激しい海域としても知られている。
「因島の近海は潮の流れが速く、毎年何人かが潮に流されたりしたそうです。私の中で海はもっとポジティブなものだった。だからそんな因島の歴史と背景を知り、身体の芯が突き抜けるような衝撃を受けました」。
島民に毎年配布される行政の広報カレンダーには潮汐表が印刷されていて、今も潮の満ち引きを知ることは生活の一部になっている。人が生きる上で、海が命を繋ぐ媒体となっている。それを知り、咲穂さんはあえて海の持つ切実さを表現することを目指した。
「世界の本当のこと」に
気付いた原体験、素材との出会い
島根県出身の咲穂さん。自然豊かな地域で育ち、山林での1人遊びが常だった。幼少期、落ちた葉が微生物に分解され土に還っていくことを知り、「これが世界の本当のことだ」と気付いたときはとても興奮したと話す。
やがて美大に進んだ咲穂さんは、教授の導きで和紙と出会う。自然植物の素材である和紙と鉱物を掛け合わせることで見つけた、酸化還元反応=錆び。これはまさに自身の原体験を想起する現象だった。錆びていくこと、朽ちていくことは、あまりにも自然で尊い。それを発見してから「錆和紙」は咲穂さんの表現における主材となっていった。
新しい感覚に出会うような
因島での1ヶ月
1カ月間、咲穂さんは因島に滞在しながら作品作りに集中した。滞在中はメンタリティに気を配り、食事は地場食材にこだわるなど体調管理にも細心の注意を払っていた。
一方、因島での非日常は、新しい感覚に出会う機会となった。制作アトリエから宿泊施設に帰るまでの道のりで見た船の行き交う夕焼けの海、滝のような雨音がもたらした制作中の静寂、スタッフとのコミュニケーション。そんな毎日がとても幸せな時間だったと、咲穂さんは振り返る。
「また、プロデューサーの酒井さんと対話を重ねたことも表現をより洗練することに繋がりました。作品にタイトルを付けない発想もこの対話から。作品を概念で縛るのではなく、見る人に委ねたい。あえて言語化しないことに意味があると思えました」。
陽の当たるアトリエで、自然の循環を想う
咲穂さんは現在、山梨県甲州市に自宅兼アトリエを構えている。昔ながらの一軒家で窓が多く、気持ちの良い風が通り抜けていく。陽当たりのいい縁側に接し、アトリエとなっている1階の和室。開け放たれた大きな窓から咲穂さん家のねこが帰ってきて、ゴロンと気ままに昼寝をし始める。
錆和紙を主材とし、土着的な素材を使ったインスタレーション作品など幅広い創造を続けている咲穂さん。現在は「オフグリッド」という小さな電気を自給自足する概念に興味がある。人間と自然がいかに共存していくか。そのビジョンを想起できるような作品作りが、アーティストとしての命題だ。
朽ちていくことは美しい。
静かに表情を変える錆和紙が教えてくれること
自身が表現していきたいことは何かと尋ねた。
「静けさ、ですね。どんな作品においても、表現する上で一番美しいと感じるテーマは“静けさ”だと思っています」。咲穂さんは一つひとつ丁寧に言葉を選びながら答えてくれた。
落ち葉が微生物によって土に還っていく。物体が錆びていく。人が年老いていく。それらの変化は、静かに行われていく。同じように作品の錆びは、これからも静かに育っていくだろう。
錆びていくことは、朽ちていくことは、はたして“衰退”なのだろうか。SEABRIDGEにこの作品が飾られた背景には、『変化を受け入れ、時代に沿った価値観や多様性を地域に繋いでいきたい』というメッセージが込められている。
今一度、作品の前に立ってみてほしい。静かに行われていく錆びの営みは、この空間ごと変化しながら未来へと続いていく。